著作権という魔物

 「著作権という魔物」(岩戸佐智夫著 アスキー新書)。タイトルのインパクトもあって、読んでみた。それまで、著作権に深い知識を持っていなかった著者が、各方面の関係者、有識者に取材を重ねることで「ネット時代の著作権」に関して考えてゆく、といった内容の本だ。

 僕は8年前に、ソニーミュージック・パブリッシングという音楽出版社で2年間働いたのだが、それまでレコード会社で宣伝や制作の仕事をしていたころはまったく著作権の知識がなくて(なくても仕事がやれてしまった時代だったのだ、、、)、そのときはじめて学んだ。ちょうど同じ頃、業界的にも著作権印税に関する注目度が高まって、一曲の権利をめぐって放送局などの各媒体やプロダクションなどがからむ「タイアップの道具」のような側面も出てきた。そして、PCによるコピー、ネットによるファイル交換など、法律ではコントロールしきれない問題も持ち上がり、業界人じゃなくとも著作権というものに興味を持つような時代になってきている。

 ネット時代の著作権、権利処理はこうあるべき、みたいな持論僕にはない。正直わからない。例えば今の僕は、世の中にまだ広く知られていないアーティストや楽曲と関わっていて、大きな宣伝力や有力な媒体との太いパイプなどもないので、ネットが頼りだ。規制をゆるめてもっともっとフリーで、世の中に広まる仕組みがあればと思う。ただ、その中の誰かが凄く売れるようになって、作品が勝手にコピーされ出回るようになると手のひらを返したように憤慨してしまうかもしれない。

 この本でも顕著で著者も指摘しているのだが、とても頭のいい人たちがそれぞれの立場で正論を述べているので、それぞれの意見がもっともなものに思えてくる。(そして、そういう話を聴いてゆく作業の果てに著者が疲弊してゆくところが妙にリアルで、この本を新書にありがちな情報を的確にまとめた書物で終わらない、生々しいものにしている。)
 それぞれの立場の正論があるし、同じ人でも職が変わることによって別の立場に立つこともあり得るのだ。著作権に限らず、今の社会に起きているさまざまな問題に関しても、それぞれの立場で賢くてもっともらしい正論だけを言っているだけでは、何にも解決できない世の中なのだ。最も力を持つ既得権者の正論らしきもの(!)が、最後は押し切って勝ってしまうような世界に今はなりかねない。

 今の著作権に関する論議は、今のネットの進歩によって生まれる具体的な事項に対応することで手一杯で、かつ各方面の既得権者たちの意見の擦り合わせで忙殺されているのかもしれない。今は世に出ていない、これから生まれてくる「著作者」たちへの目線が十分じゃないように思う。

 そう、権利以前に、素晴らしい「著作物」が今後もどんどん作られることがまずは大事なのだ。有望なアーティストの才能を触発するような、過去の著作物にいつでも触れられるようになっているべきだし、今後は個人じゃなく、複数の作家によるコラボ作品みたいなものが重要になっていくような予感もある。そのためにネットが有用なものであってほしい。(もちろん、まったく規制がなくては無法状態になるだろう。しかるべき規制はあっていい。)
 そして、加えるなら、「未来の素晴らしい著作物」のためには実はネット以上に、生で著作物に接することの重要さがかえってクローズアップされてゆくようにも思う。

ビリージョエル「ストレンジャー」(30周年記念盤)

vozrecords2008-09-22

 前に読んだ小西康晴さんの「ぼくは散歩と雑学が好きだった」のなかで、(音楽の)初期衝動はとっくに忘れてしまった、はじめから僕は音楽を仕事としてやっている、という主旨のことが書かれていて、頭に残っている。あえてそういうことを言うってことは、100%の本心ではないんじゃないか、音楽マニアのクリエイターの代表格のように捉えられることへの異議なのか、プロとしての矜持なのか、などと言葉の真意をはかろうといろいろ考えてしまった。

 と、いうのも僕は、二十数年の間、音楽ファンとしての部分をあまり損なわれることなく来てしまって、(幸か不幸か、と言えば、個人的な感情としては幸で、客観的なビジネスの目線としたら不幸だ、、)、三十代終わり頃から音楽ビジネスに関わるモチベーションをあげるために、時折自分の初期衝動の確認作業が必要になった。初期衝動の確認作業というのは具体的に、十代の頃夢中になった曲を聞き直して、当時自分にわき上がってきた感覚を思い出すことだ。やっぱり昔の曲の方がいいなあ、で終わってしまったら職業人としてはマズいので、、、。まだ疲弊していなかった時の自分の耳に戻して(というか暗示をかけて)、ふたたび新しい音楽に対峙するのだ。上記の小西さん的な視点からみたら、ずいぶん甘っちょろいスタンスだなあ、とも思うが、そんな感じでここまでやってきたので後にはひけない。

 さて、僕の一番の初期衝動と言えば、自分のこずかいで初めて買ったアルバムである、ビリー・ジョエルの「ストレンジャー」かもしれない。(ちなみに初めて買ったシングルはダウンタウン・ブギウギ・バンドの「カッコマン・ブギ」だ)オープニングの「ムーヴィン・アウト」のイントロを聴いただけで、中学生の自分の感覚がわずかだがふわっと戻ってくる。この年齢の頃に夢中になった音楽なり、映画なり、漫画だったりというのは、人格を作るのに間違いなく影響を与えてると思う。そう考えると、今そういうビジネスに関わっている人も生半可なことはできない。

 さて、少し前にその「ストレンジャー」の30周年記念盤が発売になっていて、そこに入っている78年当時のライヴDVDが気になっていたのだが、ようやく見ることが出来た。文句なしで今まで見たビリージョエルの映像の中で一番だと思う。もちろん、80年代以降のエンターテイナーぶり全開のライヴも楽しいのだが、アーティストとしてのムードというか匂いはこの頃が一番鮮烈だ。当時のプロモ用のライヴ素材の「ストレンジャー」と「素顔のままで」も入っていて、中学生当時僕はテレビでこの2曲の映像を見た記憶があるのだけれど、これだったのか、とようやく判明した。
 それから、メイキング・ビデオもあって、当初プロデュースはジョージ・マーティンに頼んだとか、アルバムの曲はヴォーカル含めほとんど1発録りだったという話にも驚いた。僕は自分が関わるレコーディングは、細かく直して精度の高いものにするより、一発録りで感じられる「気」みたいなものを大事にする傾向があるんだけど(予算の問題ももちろんあるけど、、)、原点はここにあったか、と勝手にこじつけて納得したりもした。

沢田研二

 昨晩、テレビを見ているとうちの奥さんが「ブ、ブタが歌ってる、、、。」
テレビで歌っていたのは、沢田研二。番組はNHKの「songs」
 う〜ん、確かに、、、、でもなあ、、。
僕より一回り下の奥さんは、ジュリーの最盛期をまったく知らないと言う。
彼の最盛期に十代だった人たちは、彼が当時の音楽シーンでもかなり飛び抜けた存在だったという記憶がやきついていると思うけど、確かに彼がテレビに積極的に出なくなって久しい。

どうでもいい話だけど、僕は日本で歌謡界、ポップ、ロック問わず、史上最高の男性ヴォーカリスト沢田研二だということに10年前くらいに勝手に決めた。十代の頃は、新曲を出すたびにドキドキさせてくれた彼のエンタテインメント性にばかり惹かれていたけど、年をとって、長く音楽の仕事についていると、歌手としての彼がいかに特別なのか、よくわかるようになった。うまい、へた、どうこうじゃなく(もちろんとてもうまい人だ)、声の響きに、色気というか、人の本能に働きかけてくるようなつややかなニュアンスがある。

 しかし、いまTVに映っている彼は本当に太っている。かつての彼の「美しさ」に虜になった人たちはどんな思いで見ているのだろう。何年か前に彼は太ったことについて、「年をとってからダイエットしたり、鍛えたりするとシワが出てしまう。美しく老いるには、脂肪が必要なのだ」といったようなことを話していて、へえーと思ったのだが、その信憑性についてはよくわからない。

 ただ、今は老いることへの恐怖心が日本中に蔓延しているように思う。「昔とちっとも変わらないですね。」というのが年配の方への最上の褒め言葉であるような気さえする。(40代半ばにさしかかった僕も時折強迫観念にかられてスポーツジムに駆け込んでしまう、、、)

 でも考えてみると、年をとっても元気なのはいいけど、若さにしがみつきすぎるのは、なにか品のないことに思える。健康に留意しながらもゆっくり、しっかり老いてゆく、そして老いたなりの別の魅力を発揮することが本来あるべき姿のはずだ。太った元気でおちゃめなおじさん、という姿に変貌した沢田研二は、そうした世の中の不自然な価値観をきっぱり拒否しているようでもある。そして、彼は長くインディーズ活動をし、ライヴに活動の中心を移し、世の中に警鐘を鳴らすような歌詞を書いている。ショーケンの自伝でも書かれていたが、ジュリーはものすごく気骨のある人物なのだ。この今の姿には、もっと深い彼なりの考えがあるようで、その辺の真意を知りたい。

コミュニケーション

 僕もまた北京五輪での星野監督の采配に無茶苦茶腹が立ったひとりだが、日本人からとても好かれている人だからまたあんまり非難はされないんだろうなあ、と思っていたら、TVはともかく一般の人たちのバッシングが予想以上に激しくてちょっと驚いた。この全国的なイライラ感というか、ちょっとのきっかけてあふれるように出てくるヒステリックさ、というのはかなり深刻な感じだ。
 それにしても、オリンピックで良いパフォーマンスを行えた選手というのはコーチや監督との意思疎通がとてもうまくいっている、ということがTVの画面を通してもはっきり伝わってきていて、「コミュニケーション」ということをつくづく考えてしまう。これは僕のイメージで実際はわからないが、星野監督のような、人間性の良さやある種のオーラによって人が集まり物事を遂行していくというのでは、これからは足りなくて、もっと個別の細心なコミュニケーション術のようなものが必要になっていくような気がする。一昔前に比べて、人々がナーヴァスになり過ぎていることを念頭に置いた、人間関係というか。そんなことを考えると、ほんとめんどくさい時代になったとも思うけど、、。

 昨日のブログで、携帯電話によって、音楽もコミュニケイティヴなものにどんどんなっていくように予想した。かつてのように単に作品を鑑賞していくような感じじゃなく、作品を通じてアーティストと聴き手だったり、作品によって提起される世界で聴き手と聴き手が想定する相手(例えば恋人)が対話しているような感じがもっともっと求められていく。僕のようなオールド(?)音楽ファンにしてみると、正直あまりに直球でちょっとおしゃべり過ぎな音楽にも思えるけれど。

 ITが台頭し始めた頃、経済の世界ではこれからは情報(インフォメーション)の時代だ、ということがさかんに口にされたことを覚えているけれど、これからはさしずめ「コミュニケーション」の時代だ。(僕は評論家でも何かに影響を持つ人物ではないのでこんなことを提案してみてもしょうがないけど)自分と関わっていく人たちと充実したコミュニケーションをとることができた人が、何かを達成できる、そう思う。クリエイターも、未知の人たちにちゃんと「伝える」ことを今まで以上に強く念頭において、きびしく吟味しながら、創作の技能を高めていく必要があるかもしれない。

 もちろん、アーティストとレーベルや事務所の人間のコミュニケーションの質によって成功のレベルも変わっていくだろう。(僕の場合アーティストにまかせっきりというかかなりほっといているので、あまり偉そうなことは言えない、、)

音楽(6)

 僕が関わってるような大衆音楽(ポピュラー・ミュージック)というのは、流行(はやり)ものという宿命みたいなものがあって、それが芸術的な音楽との違いでもあるのだろう。もちろん、大衆音楽にも、何人もの偉大な才能による芸術としても評価されている作品も少なくないが、音楽業界で普通に働いている人たちの日常では、そんな歴史的な才能にまず出会えることはない。ホントにまれなケースだろう。



 僕は自分でレーベルを作って、あえて流行を意識しないで、なるべく作品がスタンダードなものに近づけるように心がけてきた。流行のスピードがどんどん早くなってきていて、それに追いつこうとすると、逆にこぼれ落ちてしまうようなものがあって、そういうこぼれ落ちていくもののほうにかえって価値を感じていたからだ。実際、僕のレーベルの作品は流行ものっぽくないせいか、黙々と歩みを進める亀(?)のように、長い間少しずつ少しずつ売れる作品が多い。



 でも、最近筒美京平松本隆のBOXセットを聴き直したせいか、「流行ものとはなんぞや?」みたいなものについて考えるようになった。
 流行するものだけが持つもの。
 それは質感というより、どうしても心そそられてしまうような「匂い」のようなものに思える。そして、「流行ものの匂い」あってこそのポップ・ミュージック、そんな感想をあらためてもった。ビートルズに代表されるような多くのスタンダードナンバーも当時は流行ものでもあったわけだし。



 今の世の中、流行ものというのは、多くの人にとりあえず「チェックされる」という宿命がある。自分が時代や社会に取り残されていないことを確認する作業、という言い方をするとどこかさみしい感じもするが、社会的にはけっこう大事な機能でもあるかもしれない。僕のような暑苦しいくらいの音楽好きは、「チェックするような」音楽の聴き方は容認できないところでもあったのだが、これからはもう聴き手それぞれの選択になっていくのだろう、と思わざるを得ない。



 今のところ、日本ではPCの配信より携帯の着うたのほうが圧倒的に人気なのだが、これは「流行ものをとりあえずチェックする」機能の部分が明確になったいい例だろう。それを考えると「CDから配信に移行する」のではなくて、今後はPC、携帯、パッケージといろいろな聴き方ができてそれぞれが勝手に選ぶようになったということだろう。

 音楽の聴き方が多様化する時代、「流行ものの匂い」は同じように聴き手に届くのだろうか?「匂い」が薄まったり、違った匂いが勝手にブレンドされたりして。

音楽(5)

 今から6年以上前、僕がレコード会社をやめた頃はまだまだCDは売れていたが、何か地殻変動みたいなものは起こっていた。当時は(今もだけど)どんなジャンルのどんな個性のアーティストも、同じサイズの成功を求められていて(チャート何位だとかミリオンだ、、)同じ土俵で競わなければならないのが普通だったけど、これからはそれぞれのアーティストの個性に準じたサイズの「成功」が成立してゆくだろうなあ、という予感があった。

 実際自分でレーベルやって痛感したのは、それぞれの個性にあったやり方は成立するようになったが、それで"食っていける"というのはまた別問題だということだった。だが、よそに目を向けてみると、アーティスト自身が原盤を作って、数万枚売り上げているケースも増えてきている。大きなレコード会社や事務所のバックアップで何十万枚も売れたが、さまざまな欲望がうずまく世界のまっただ中に放り込まれるより、こういう方が精神的なストレスがなくていい、と判断するアーティストがでてきてもおかしくない。アーティスト自身が、どんなサイズの成功が自分にとって本当にハッピーなのかしっかりイメージすることが大事な時代になったのは間違いない。

 さて、話は変わて、誰もが簡単にパソコンのソフトを使って音源を制作でき、ネットで発表できるようになったことは、ポジティヴな見方をすれば、予想外の面白いものが作られる可能性が高まった、とも解釈できる。プロにはとても思いつかないようなこと、アマチュアリズムのすごさ、を発揮できる場が提供されたのだ。
 見方を変えると、メジャーレーベルは「プロフェッショナリズム」をより求めることが光明になるのじゃないかという、僕の勝手な見解がある。コアな音楽ファンじゃない層は、メチャクチャセンスがあるなんだかよくわかんない作品よりも、プロが本気出して作ったものをやっぱり支持するように思うのだ。不況の時代ってそういうものなんじゃないかと思う。

 さて、ネット時代のネガティヴな面だけど、いいものもひどいものも同じように混在して、いいものを見つけづらくなる現状もある。極端な個性に振り切れていないと目立てない。大きな配信サイトや大手ポータルサイトの音楽ページは、どうしても取り扱うものが似てしまうし、インディーズサイトはアーティストが多すぎてそれぞれのバンドの個性を際立たせるような機能にはなっていない。僕のように、自分では音楽をやらず、とにかくたくさん聴いて、場数だけとりあえず踏んできた人間などは、本腰を入れてネットに錯綜する音源の宝探しや交通整理をやるべきじゃないか、と思うこともあるが、ものすごく労多いばかり、、という気もする。
 長い間オーディションテープを聴く機会を与えてもらっていて、つくづく思うのは時代に関係なくほんとに才能のある人はかなり限られている、と痛感しているからだ。



 

筒美京平

 先日TVで黒人演歌歌手のジェロが堺正章の「さらば恋人」をカヴァーしているのを聴きながら、「ますますわけのわからない時代になっていくなあ。」とため息ついていたのだが、あらためて聴くといい曲だった。この曲も筒美京平なのか、と思って、10年以上前に買った彼の「HISTORY」という計8枚のCDを久しぶりに聞き直してみた。
 僕はレーベルと平行して、ずっと作家の楽曲提供のコーディネートをやっているのだが、ここ最近日本の歌謡曲の歴史というか大ヒット曲のメロディーをあらためてチェックし直さなければという必要も感じていたので、いいタイミングだった。
 筒美京平といえば日本の歌謡曲の代名詞とも言える巨大な才能なので、僕がここでああだこうだ語っても仕方ないと思うのだが、久しぶりに聴いて思ったのは、どんなジャンルの曲も例外なくすべて「品がいい」ということだ。これだけたくさんのヒット曲を書いていれば、いくつかは、エグいくらいのフックの強いメロディーがありそうなのだが、実はそうではなくて、メロディーのつなぎ方の妙とアレンジとの組み合わせ、そして何より歌詞とのハマり具合、という総合要素で高レベルのヒット曲を作っていたのだ。一曲の中においしいメロディーをいっぱい詰め込む彼のやり方は、後に桑田圭祐もつんくも継承しているが、本家はやっぱりやり方がスマートだ。天才たる所以なのだろう。
 でも今回痛感したのは、「歌詞とのハマり具合」の大事さで、ポップスのメロディーのパターンは出尽くして新鮮なものを生み出すのがほとんど困難なこの時代、言葉とメロディーをがっちり合わせる、というか言葉を重視したメロディーが大事になってくると思う。
 今のところ、楽曲提供の場合、作曲と作詞はほとんど別に進行するのだが、作詞家と作曲家がもっとせめぎ合うような制作スタイルを見直す必要がある気がする。
 加えて言うなら、「アルバム」という形の価値が下がり、楽曲単位で判断されるようになってきている今、70年代から80年代前半の歌謡界のような、ヒット作りのプロフェッショナリズムを、うまく今の時代にあった形でいかに再現できるか、その辺が今後のメジャーレーベルの浮沈の鍵を握ってるように思う。

 などと、いつものクセで真面目に語ってしまったが、最後に僕の好きな筒美京平作品を。
AORやメロウなもの好きとしては、野口五郎「グッドラック」稲垣潤一「夏のクラクション」今井美樹「野生の風」とかは昔から愛聴していた。アイドルものでは、やっぱり少年隊「ABC」は何度聴いても完璧だ。ちょっとマニアックだけど沖田浩之「E気持」は聴いていてずっとにやけてしまう。(「波乗りジョニー」は絶対これをモチーフにしてると思うんだけど。)客観的に見たら、近藤真彦田原俊彦、少年隊、CCB、小泉今日子中山美穂、荻野目洋子などの作品を量産してるころはちょっと神がかってる感じさえした。歌い手のカラーや曲のコンセプトを明確にわかりやすく表現されているものばかりだ。

 今は、とりあえず音楽関係者の誰もが「いい曲」がほしいというのが合言葉のようになっているが、歌い手の力が最も発揮できるものを見極め、そこにコンセプトやカラー/世界観を明確にして味付けするみたいな、基本的な作業を念入りに見直すことがまず優先されるように思う。