音楽(6)

 僕が関わってるような大衆音楽(ポピュラー・ミュージック)というのは、流行(はやり)ものという宿命みたいなものがあって、それが芸術的な音楽との違いでもあるのだろう。もちろん、大衆音楽にも、何人もの偉大な才能による芸術としても評価されている作品も少なくないが、音楽業界で普通に働いている人たちの日常では、そんな歴史的な才能にまず出会えることはない。ホントにまれなケースだろう。



 僕は自分でレーベルを作って、あえて流行を意識しないで、なるべく作品がスタンダードなものに近づけるように心がけてきた。流行のスピードがどんどん早くなってきていて、それに追いつこうとすると、逆にこぼれ落ちてしまうようなものがあって、そういうこぼれ落ちていくもののほうにかえって価値を感じていたからだ。実際、僕のレーベルの作品は流行ものっぽくないせいか、黙々と歩みを進める亀(?)のように、長い間少しずつ少しずつ売れる作品が多い。



 でも、最近筒美京平松本隆のBOXセットを聴き直したせいか、「流行ものとはなんぞや?」みたいなものについて考えるようになった。
 流行するものだけが持つもの。
 それは質感というより、どうしても心そそられてしまうような「匂い」のようなものに思える。そして、「流行ものの匂い」あってこそのポップ・ミュージック、そんな感想をあらためてもった。ビートルズに代表されるような多くのスタンダードナンバーも当時は流行ものでもあったわけだし。



 今の世の中、流行ものというのは、多くの人にとりあえず「チェックされる」という宿命がある。自分が時代や社会に取り残されていないことを確認する作業、という言い方をするとどこかさみしい感じもするが、社会的にはけっこう大事な機能でもあるかもしれない。僕のような暑苦しいくらいの音楽好きは、「チェックするような」音楽の聴き方は容認できないところでもあったのだが、これからはもう聴き手それぞれの選択になっていくのだろう、と思わざるを得ない。



 今のところ、日本ではPCの配信より携帯の着うたのほうが圧倒的に人気なのだが、これは「流行ものをとりあえずチェックする」機能の部分が明確になったいい例だろう。それを考えると「CDから配信に移行する」のではなくて、今後はPC、携帯、パッケージといろいろな聴き方ができてそれぞれが勝手に選ぶようになったということだろう。

 音楽の聴き方が多様化する時代、「流行ものの匂い」は同じように聴き手に届くのだろうか?「匂い」が薄まったり、違った匂いが勝手にブレンドされたりして。