音楽(4)

 じゃあ、これからの音楽業界は、、。ミュージシャンはどうなる?レコード会社は?音楽メディアは?といろいろと考えてしまうけれど、はっきりした新しいビジネス・モデルができていない今、当然、僕にもわからない。わかっていれば、なにかアクション起こしているし。自分でやってるレーベルも相当脆弱でフラフラしている中で僕ができることは、今関わっているミュージシャンや音楽関係者とのリレーションの中で何か解決の糸口を見つけたい、と思うだけだ。

 「eyescream(アイスクリーム)」という音楽雑誌で小西康陽さんや藤原ヒロシさんなどはこれからのアーティストに求められる条件として「LIVEができること」をあげている。僕がこの間ふれた「デジタル音楽の行方」でもそういった見解があったし、実際CDの売り上げは落ちても、コンサート売り上げは伸びているというデータがある。ただ、現在、ライヴ活動だけで「食っていける」アーティストはかなり少ないし、そういう人はCDだって売れてるはずだ。ただ、小西さんも藤原さんも「生で音楽を聴く」という場には、他には換えがたいものがあって、今まで以上に重要なものになるのだと予測しているのだろう。
 また、同じく「eyescream」で曽我部恵一さんは、昔は一枚のアルバムがアーティストを形作ってくれたけど、今はそこまでアルバムは重要視されていなくて、もっと人間性やパーソナリティーが重要になっていると語っていて、その結果自ら中心となってレーベル/事務所をやり、地方でもライヴをやりコツコツと草の根的な活動をやっている。

 考えてみれば、レコード会社と契約して、報酬を得るという「レコーディング・アーティスト」という職業は歴史も浅く、音楽の歴史から見たら特殊な仕事なのかもしれない。パーマネントな職業ではなかったのだ。同じ雑誌で小西さんはあと何年かで「CDはなくなるし、メジャーのレコード会社もなくなる」と大胆に言っているが、実際に残る残らないは別にして、今まで常識のように疑いもしなかったCDやレコード会社という存在を、一度まったく抜きにして自分の活動について考えることはミュージシャンも音楽関係者も今、必要だろう。

 若い頃TVなどで見聞きしてインプットされている、お気に入りのアーティストが売れていった過程などの記憶ももうリセットしてしまったほうがいいのだろう。もうそんな方程式は通用しないと。僕の年代で言うと「ザ・ベストテン」などの音楽番組の華やかな記憶が今も強くあるが、今やチャートに夢はない。なんでもかんでもタイアップだのみ、では明日はない。

 ひょっとしたら、若い頃影響を受けた「アルバム」という形式へのこだわりも一度、リセットするべきなのかもしれない。意図的にLP時代の郷愁感をその年代の客層に向けてあえて”売り”にしようというなら話は別だが。

 
 アーティストがいて、曲があり、まだ未知の聴き手がいる。それがどうやって結ばれたらいいのか。また、どうやれば結ばれるのか。そういう骨組みから、一から考えることが必要なのだろう。そのつながる、最もダイレクトな場は、まずはやっぱりLIVEになるのかもしれない。

音楽(3)

 少し前に出た茂木健一郎の「すべては音楽から生まれる」は、てっきり「音楽はこんなに脳にいいんだよ」という本かと思って読んでみたら、彼自身の強い音楽体験を語った「音楽へのラブレター」みたいなものだった。そういえば、それよりもうちょっと前に出た村上春樹の「意味がなければスイングがない」という本も彼の個人的な音楽体験と音楽観を正直に語ったものだった。
 実際読み物としては音楽関係者や音楽に詳しい人にはとりたてて「へー」というような驚くようなことは書いていない。この2冊をなんとなく物足りなく感じている人もいるかもしれない。(正直、最初は僕もそうだった。)
 
 だけど、ここで大事なのは、音楽とは異分野の第一人者で何らかの影響力を持つ人たちがここへきて「音楽への思い」を真剣に語り出したということだ。そして、そこには情報じゃなくて、ひょっとしたら共感されるかもしれない個人的な思いを託している。
これは端から見ても
「どうやら音楽を取り巻く環境がまずいことになってるぞ」と危機感を感じたからじゃないかと思うのだ。

 人生に大きな影響を与える音楽体験をした人が、そういった機会が徐々に失われているという今の世の中でできることは、自分の音楽への思いを声高に語ることだけなのかもしれない。
 音楽関係者は「音楽を職業としている身分」だから、そこで今時「音楽が好きだー」と声高に言ったら、アホだと思われるよー、と思ってるのかもしれない。でも、もはやカッコつけてる場合でもないだろう。すばらしい音楽体験は他の何にも換えられない。音楽関係者はその辺をきちんと自覚して、自負してふんばらねばならないだろう。きつい状況だけど。

 と、きれいごとを必死に自分に言い聞かせるように書いてる訳だけど、これからはもっと具体的に音楽業界のことを考えてみます。

音楽(2)

 「eco」というのも、個人的になぜか最初は全面的に同意できる感じじゃなくて(ただ僕があまのじゃくだからかもしれないが)、仮にオレがやってもやらなくてもそんなに影響はないだろう、みたいな「ありがちな傍観者」を気取ってたわけだけど、状況はもう一刻も猶予のないのは誰にでも明らかなわけで、ちょっとしたことでもやっぱりなにかやったほうがいいのは間違いない。

 音楽のあり方も、実はけっこう猶予のない状況にあると思う。人が生きている限り音楽がなくなるることはないが、音楽があまり楽しめない状況が現にあらわれていて、これはけっこう危機的なことだ。
 音楽はしばらく長い間娯楽のひとつとして分類されてきていて、「衣食住」に関わるものとちがって人間にとって絶対なくてはこまるものじゃない(実際、僕が音楽業界に入ったときにそういったことをレクチャーされたことがある)という認識も世間ではあるとは思うが、僕はそうじゃないだろう、という気持ちがある。
 音楽は根源的に人の心に最も強く働きかけることのできるもののひとつであるのは間違いないはずだ。今までになく人の「心」の問題があちこちでとりあげられている今、単に今起きている問題は「ビジネスとしての音楽」の問題だけだと限定するのはどうか、と思う。

 とはいっても、バブル世代でちゃらちゃらと仕事してた時代も確実にあった僕は、あんまり真剣に「音楽とは!」みたいなノリになるよりは、ちょっと余裕があって遊びのあるほうが、ある種の面白いものはできるんだけどなあ、と思わないでもないけど、今はその”音楽バブル”の反動がきているのは間違いない訳で、ここはやっぱり「eco」同様に真面目になるべき時期なのかなあと思う。

 結局、解決への糸口も見つけられないまま、引き続き考えていきます。

音楽(1)

 最近、いろんなレコード・メーカーの知り合いを訪ねて話す機会が多くて、音楽業界は僕の予想以上にシビアな状況にあるということが伝わってきた。
ミュージック・マガジンの最新号でも「CDはどこへ行く」というのをメイン特集に組んでいて、「CDが売れない」というムードはかなり蔓延している。
僕もこのことについてはいろいろ考えてきたけど、それじゃあ、CDにとってかわってPCや携帯の配信に完全に移行できれば、”めでたしめでたし”ということではないようのも思う。
 「CDが売れない」のはあくまでも象徴的な事例で、そこに含まれていると思われる「音楽の”ありがたみ”がどんどんうすれてきている」ような現状が実は問題なのかもしれない。街に出ればあらゆるところから、いろんな音楽がいやでも耳に入ってくるし、「着うたフル」なんていうのは、音楽が携帯に思いっきり歩み寄って媚びてるもののようにしか僕には思えない。古今東西いろんな音楽も掘り尽くされた感があるし、誰でも手軽にPCで曲を作れるから優れたものもまったくそうじゃないものもごっちゃになってネットにあふれているし、ドキドキするような新しいジャンルも現れてない(もう現れない?)。業界人もアーティストも先が読めない停滞感がある。そうすると、自然と音楽業界があんまりおもしろいところじゃなくなってきて、結局現場のモチベーションが下がり、面白いものが作られなくなる。こういった連鎖が、あるように思う。
 
「音楽業界はもうからないけど、無茶苦茶おもしろい」ということであれば、山師的な人種が別業種に目を移すだけで、それはそれでいい、と思う。だけど、僕が感じてるのは、業界の中でもちゃんと音楽好きな人種がかえって今煮つまってしまっている現状なわけで、これは問題かなあ、と思う。じゃあ、何か解決案はあるか、というと、すみません、全然思いつきません、、。ただ、何となく思うのは、もはやレコード会社が牽引するのではなく、音楽好きな一般人が発起して「音楽を大切にしよう」(こんなメッセージでいいのか疑問だが)みたいなことを発言していく、そして同じ気持ちの人たちが集う、言ってみれば「eco」みたいな感じかの動きが必要なのか、とも思った。この辺りは、今後も考えていきます。

エミリー・ウングワレー(2)

 再び、エミリー・ウングワレー展へ。それまで存在も知らなかった、アポリジニのおばあさんの作品に何故そんなに惹かれてしまったのか、自分でもきっちり説明できないところもあるのだが。
 2度目ともなると、細部をチェックできるもので、ある作品の所有者がエルトン・ジョンなのに気づいた。う〜ん、いろんな意味でさすがエルトン・ジョン

 前回も書いたのだが、彼女は78歳から死ぬ86歳までの8年間で、3000以上の作品を書いたらしく、これは毎日一枚のペースじゃないと無理な勘定だ。見てみるとわかるが、ぱっとみただけでも何ヶ月もかかりそうな巨大なものもけっこうあるから、毎日毎日ただただ描き続けたということでは説明できないような、相当なエネルギーが必要だ。そして、その間2年くらいのタームで、がらっと一転するようなかなり大きな作風の変化を試みている。死ぬ直前に描いた「ラスト・シリーズ」などは、アポリジニの伝統からも超越したかのような全く新しい作風になっている。人間は年をとってもこんなに大きく変化できる、ということが驚きだったし、何か勇気づけられることだった。

 細野晴臣の「アンビエント・ドライヴァー」という本をちょうど読み終わったのだが、都市音楽のパイオニアのような彼が積極的に自然に向かい本来の人間の持つ機能を回復するように試みている、という事実は興味深かったし、とても共感できた。

 僕など根っからの田舎者のくせに、幼い頃からの都会へのあこがれだけを糧に、都市的な洗練されたものを追いかけて必死に飲み込んできたわけだけど、それだけではこれからの世界ではどこへもたどりつかないことを本能的に察知して、今回のエミリーへ過剰なほど反応してしまったのかもしれない。情報や偏見、先入観でものを見ないで、ありのままの形で物事を見れるような感じに近づきたい、という願望だ。「浮き輪」の栓をぬいてぎゅっと押しつぶすように、今まで自分に入っていたものを一回吐き出して、内面的に「スッカラカン」になってみたい気持ちがある。

エミリー・ウングワレー

 昨日はエミリー・ウングワレー展を見に、国立新美術館へ。美術展はめったに行かないのだが、最近どうも精神的スランプ気味だったのでうちの奥さんが見に行くように勧めてくれたのだ。
 考えてみると、僕がふだん接している「作品」は、活字だったり、自分の好みの音楽に限定されていて、知らないうちにアプローチが「感じる」じゃなくて「理解する」方向に固定されてしまっていたことに気づいた。
 会場に一歩踏み入ったとたん、僕はこのアポオリジニのおばあさんと、1%も共通するバックグランドはなく、ありったけの知識や記憶や、想像力までも動員しても理解不可能なのだと察知した。これはもう、何も考えず、ただただ、見て見てみるしかないと思った。
 エミリーさんは、アポリジニの伝統のボディペインティングや砂絵を書いていて、60歳代後半からバティック(布の染め物のようなもの)を作り始め、78歳から86歳で亡くなるまでカンヴァス画を書いたらしい。それも3000枚から4000枚も。今回はそのカンヴァス画がメインで、3m〜4mもある巨大なものも数多くあって、そこに様々な色彩で、点描や線を描き込まれていた。
 先入観で、こういう先住民族の人たちの作品は強い原色を使うシンプルなものなんじゃないかと思っていたが、もっと複雑で微妙なものが多く、鮮やかな色合いもあれば、モノトーンもあり、日本の屏風絵みたいな色使いもあり、という風にバリエーションも実に豊かだった。
 一番驚いたのが、78歳からの8年間の間に、何度もものすごい大きな作風の転換を行っていたことで、基本的にダイナミックでエネルギーに満ちていて、とてもそんな年齢の人の作品には思えない。ただ、見る人を圧倒するような巨大な作品でも、こちらに向かって威圧してくるようなところはない。これは、作家としての個人のエゴのようなエネルギーではなく、あくまでも大きな自然のエネルギーを自分という媒介を通して表現しているからだろう、と想像した。

 大きくてエネルギーをこめたような作品群が数多く並ぶなか、出口近くに彼女の亡くなる2週間前に書いた「ラスト・シリーズ」とカテゴライズされている作品があって、ものすごく惹かれてしまった。刷毛でさらっと書かれているのだが、心安まるような美しさがある。決して「水墨画」のように淡くなっていくのではなく、シンプルだが鮮やかでエネルギーもあるが、同時にやさしい。正直、家にほしい!と思ってしまった。

川合辰弥「ため息」

 川合辰弥の未発表曲「ため息」。僕が初めて彼を見たとき歌っていたのがこの曲だった。ボズレコードに呼ぶことになったきっかけかも。これは今年の5月15日、代々木ブーガルでのライヴ。