スティーリー・ダン

 いつか読もう読もうと思っているうちに10年近い何月がたってしまっていた、スティーリー・ダンの評伝が先日手に入ったので、遅ればせながら読みながら時間を見つけては彼らの作品を最初から順番に聴いていた。
 読みどころはなんといっても、彼らのレコーディングに対するおそろしいほどの「こだわり」を示すエピソードだ。一つの曲の一つの楽器に複数の超一流ミュージシャンを試しているのだ。彼らの代表作には各楽器の伝説的なスーパープレイヤーが参加しているのは知っていたが、その影には他のスーパープレイヤーたちによるけっこうな数の「ボツ」テイクがあったのだ。ドナルド・フェイゲンウォルター・ベッカーは譜面が苦手だったらしく、彼らだけにわかる「イメージ」を(無愛想に)感覚的な表現で伝えたため、多くのミュージシャンは混乱したらしい。どんな凄いプレイをしても二人のイメージと違えば、あっさりノーなわけだから。きっと今、彼らの同じ曲のミュージシャン違いのヴァージョンなんかをまとめて発表したら、世界中のファンは飛びつくはずだけど、そういった「偉大なボツテイク」を世に出す気持ちは彼らには全くないようだ。
 流行なんかまったく見向きもせずに、変質的なまでに自分たちのイメージを追求することによって、まったく時代を超えた音楽を作り上げたわけだけど、こういう音楽はもう生まれないんだろうなあ、と思う。音楽を取り巻く状況の変化で、この時代のようなプレイヤーはもう出てくると思えないし、出てきてもこんなに「効率が悪く、コスト意識皆無の」レコーディングを許すレコード会社は絶対にないだろう。
 でも、「効率悪い」ことから、凄いものは生まれるはず、とも思うけど。
 音楽業界が景気が良かった頃、日本でもレコーディングに高いお金をかけていて、中には長期間スタジオをおさえながらミュージシャンが何日も現れなかったみたいな、逸話も昔よく耳にした。それはさすがに馬鹿げている。少なくともスティーリーダンは、その果てしなく長い時間、ちゃんとレコーディングしていた訳だから。
 インタネット時代だから出来る、新しいタイプの「変質的こだわり音楽」というのが生まれるとしたら、いったいどんなものだろう?