ピアノマン〜川合辰弥ライヴ

 昨晩は川合辰弥のライヴを見に下北沢BIGMOUTHへ。
 ここは下北沢らしいムード(?)の濃厚な、弾き語りアーティストを集めたライヴ・バーだ。そういう”濃いめ”の人たちに混じって演奏するのも刺激になると思って今年の初めから時々ライヴをやってもらっている。でも、やっぱり彼独特の内向的で、でも瑞々しさのある世界は「場」に少しフィットしてないなあと思いながら、そして、ピアノマン、男性ピアノ弾き語りアーティストとは?みたいなことをまたまた考え始めてしまった。
 僕が「ピアノマン贔屓(びいき)になってしまったきっかけは、随分さかのぼること1977年、中学一年のときだ。この年にリリースされたのがビリージョエル「ストレンジャー」。そして、原田真二のデビュー(「てぃーんずぶるーす」「キャンディ」「シャドー・ボクサー」の3ヶ月連続シングルは本当に衝撃だった)。これが決定的だった。ただ、ピアノ弾き語りという外見としての新鮮さはもちろんあったが、あくまでも二次的要素で、やっぱり曲自体のインパクトが大きくて、実際この辺の曲はアレンジ自体もピアノをさほど強調していなかった。そんなことを考えていくと、ピアノマン・ブームというのは日本では、いや世界的にも一度もなかったという事実に思い至る。
 ダニエル・パウター以降、日本でも男性ピアノ弾き語りのアーティストが続々現れ、けっこうみなクオリティーは高いけど、世間を騒がすみたいなレベルにはいっていない。一部のメディアがとりあげた「静かなピアノマン・ブーム」さえ実はないことに気づかなくてはいけないのかもしれない。ジャンルとか形態など関係なく、しかも「良い曲」ではなく「世の中にフィットし、かつ明快な曲」かどうかが大事。そんなこと当然だ、と言われてしまえばそれまでだけど。新しく現れたピアノマンたちの中にも、ピアノの音色やフレージングを強調したものが多いけれど、それだけでは効果的ではないし、「ピアノマンっぽさ」にこだわりすぎてはいけないのだろう。
 さて、川合に話が戻るが、彼はピアノをはじめたのが遅かったせいもあって、ピアノ弾きの面よりソングライターとしての要素が強い。ライヴの最後にやったバラード「届きそうで届く事のない場所」などその良い例だ。ピアノでなくても、どんな楽器編成でも大丈夫な曲だ。