BJ.GIRLS、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」について

 昨日、渋谷eggmanにアイドルグループ「BJ Girls」のライヴを見に行った。理由あって、彼女たちのライヴは一年ぐらい前から、1〜2ヶ月に一度くらいのペースで見ている。みんな十代なのだが、ライヴはほとんど洋楽のカヴァーばかり、しかも当初はアンドリューシスターズとか「Alexander's Ragtime Band」や「Cry Me a River」とかオールドジャズばかりやっていて、むずかしい楽曲をきちんとトレーニングして取り組んでる感じが彼女たちのとても良いところなんだけど、最近はじわじわとレパートリーが新しくなっていき、オールディーズやモータウンジャクソン・シスターズドナ・サマー(個人的にはツボ)などをやり、今回はテーマが80年代ということでノーランズなどを取り上げていた。そして、松尾潔氏プロデュースの初のオリジナル曲「Shining star」もその流れを汲んだ非常によくできたポップチューンだった。

 彼女たちは最近のステージではマーヴィン・ゲイとタミー・テレルの「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」を歌うのだが、この曲は個人的に大好きで、「タイムトリップできたらレコーディングに立ち会ってみたい曲NO.1」だ。
  楽曲と言う意味だったら「AIN'T NOTHING LIKE A REAL THING」のほうが好きだが、「エイント・ノー・マウンテン、、」はイントロのリムの軽快な連打から、マーヴィンの細かい間(あい)の手まで、録音されている隅々まで魅了されてしまう。どのような経過で録音がすすんで行ったのかホントに興味は尽きない。
 その後、いろんな本で、マーヴィンがけっこう録音に煮詰まってたとか、ヴォーカルは二人別々に録っていたことなどを知るのだけれど、かといって別にがっかりもしなかった。僕の推測ではまずマーヴィンのラフヴォーカル(ガイド)に合わせてタミーの歌を録って、それに合わせてマーヴィンがきちんと歌ったと思うのだけれど、(タミー側からのアドリブがないことからも明白)、一緒に歌っていたら、ひょっとしたらもっと”熱い”テイクになってしまっていたようにも思う。当時、タミーにプラトニックな(?)片想いだったと言われるマーヴィン・ゲイが彼女のヴォーカルテイクに合わせてやさしくいとおしむように歌っていることで、この曲のある種の清らかさが生まれたように思う。
 僕はこの曲には、人生の中の、若く、躍動感があって、しかも儚い、そういったかけがえのない瞬間を奇跡的に映すことのできたスナップショットのようなイメージがある。そして、音楽を送り出す側のひとりとして(かなり片隅だけど)、こういう躍動感のある作品を出したいという気持ちは強い。

 このまま、音楽を聴く装置がパソコンや携帯電話にどんどん移行していっても、アルバムという存在はなくならないかもしれないが、楽曲単体(シングル)がメインになってゆくのは宿命だろう。かといってラジオやジュークボックスの時代のように大勢の人が同時に受け取るのではなく、限りなく孤独に、しかも受け手側が能動的に選択するのをやや強要されるという、今までになかったスタイルになりはじめている。そこに、かつての(例えば能天気でロマンティックな)音楽の魅力がどれだけフィットするかはわからない。だが、だからこそ、作り手や送り手は規範というか道標になる作品(純粋に自分が最も影響を受けた音楽、わけもわからず高揚したり感動したりした音楽)をいつも意識しながら、それを聴いた時の感動した心のあり方を時にはリプレイさせながら臨まないとマズイと思う。でないと、刹那的なギスギスしたものしか生まれないはずだ。説明が難しいが、僕にとっての音楽は、知性や理屈の届かない「ぼやーっとした」領域で生み出され、また受け止めているように思うのだ。
 たぶん、もうすでに携帯で聴くことから逆算してるような音楽が、作り出され始めてると思うけど、どこかでもっといい意味で青臭いというか、おめでたいというか、甘っちょろい理想をしっかり持ってないと、ダイナミックなものは出来ない気がする。